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ひとくぎり

大房先生の還暦祝いパーティー(追悼イベント)のために作った映像作品の上映が終わった。

やっと涙も止まってきたかな。(とか言ってみたかっただけ。たまにシクシクひとりで泣いている。)

今でもいろんな思いがふっと湧き上がってくる。上映した映像は出演してくれたNYのMarioさんの為にUPした。本当は奉納、献上するような気持ちで上映したのでWEB上に残すのはどうかと思ったけど、まあ、残しておいてもいいか。みほとフミヒラが狛犬で、映像を作る人が時々たずねると心が浄化される大房神社がここに爆誕した、とか一人で盛り上がっている。なんか山の中にふっと現れる小さなほこらみたいなものを作った気分でいる。

 

大切な人の死から生まれた言葉にならない沢山の思いを、これからの糧にしていこうと思うけどすごい量の思いが降り積もっていくので、出力できないままのものも多いだろうな。少しずつやっていけばいいか。出力しなくてもいいか。でも、出力しないとわけわかんない発言と行動が家族に日々向かってしまいそうなので、やっぱり何かの形で不特定多数の人に向かって出していったほうがいいのかな、とは思っている。

まずはコンディションを整えるとことからなのだけど最近夫の体調が優れなくて家の中がどんよりしてる…困ったなあ。

まあ、

ゆっくりね。色々。

 

あと、先生を失ってから、世間の何が汚物で何が汚物じゃないかよく見えるようになってきた。薄汚い。色々。私は本当に心の美しい人たちに囲まれて生きてきたんだなあ、と思う。いい学校に行ったなあ、としみじみ呟いちゃったよ。帰り道。

 

先生が亡くなってから、芸能界・スポーツ界のいろんなスターが引退して、文化人やアーティストが亡くなって、平成が終わった。先生も時代を背負って生きていた人だったんだと思う。今日この文章を読んで確信した。

 

東浩紀が時代の節目に自らを振り返る――「平成という病」

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190516-00566944-bookbang-soci

 

先生は1999年の時点でかなり世の中に絶望していた。だからみんな死ね、って言ってたんだと思う。9903@TOKYO の全編通して見るとわかる。9903@TOKYOは先生の絶望の歌で、私たちは残された希望、みたいな感じだったんだと思う。でも先生作の絶望を現す部分は意図してなかったけど自然とカットしていた。なんか絶望パートをカットしないと私生きていけないよ、っていう気分だったのかな。勝手なことしてごめんなさい。

とにかく先生はもうとっくの昔に絶望して、できることをしようって思ってやっていたんだと思う。ハイロのマエダさんが編集された冊子を読んでもそう思った。そしてやっぱり青学TVは最後の仕事のつもりでやっていたんだと思った。で、ずっと晩年そばにいて一緒に仕事していた若い海老沢くんがやめて長野に移住するってなったことも意外と大房先生にとって大きく作用したんじゃないかとうちの夫が言っていた。映像やってる自分を青学TVに入れ込んで、あれ配信されたの1月25日で、亡くなる25日前くらい。で、あー、もう時間切れだ、どうしようどうしよう、小沢呼んじゃえ、健介さん、山本哲さん、みんなみんなあとよろしくな!って感じで軽やかにギリギリかっこよく逝ったのかな。(外から見ると)

でもとにかく自分の中だけで抱えてたこと多かったし重かっただろうなあと思う。先生は奥さんと別れるのがすごく辛かっただろうと思う。そして死んでいく自分を抱えてほんとに辛かったと思う。その気持ちを思うと、本当にすぐ泣いちゃう。

 

23歳の大学4年の時、私の父親が62歳で亡くなって、一晩中泣きながら飲んだことがあった。あの時隣にいてくれて「これからいっぱい遊ぼうな」って言ってくれた先生。私のことをずっと見守ってくれてありがとうございました。先生の最後の仕事に呼んでもらえて嬉しかった。でも、先生の病気に寄り添う立場でもなかったし、私は私で生きていたし、まあ、その辺はお互いわかってましたよね。

 

先生に最後に「すみません」なんて言わせてしまって本当に後悔しています。

 

本当にお世話になりました。ありがとうございました。

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