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大房先生へ

 

 

 

大房先生へ

 

 

言葉を選ばずに図々しく言ってしまうと、先生は私にとって大切な飲み友達でした。

 

最後に2人だけで飲んだのは、もう5年くらい前になるのかな。その時、

「周りの同じくらいの歳のやつらが人生をまとめる仕事をし出した、ああいうのは嫌だ」って言っていたのを思い出します。

でも、先生が亡くなる直前まで、小沢くんに引き継ぎをしていた「青学TV」は、自分の生み出せる最後の仕事、作品、集大成のつもりで作っていたんじゃないかな。どうでしょう。

私が大学生だった頃に先生が「言葉の表現はもうやりつくされてるけど、映像にはまだまだ新しいことができる可能性がたくさんある」って言っていて、私はその言葉にすごく引っ張られてここまできた感じがあります。

最近では「YouTuberって文学に若者が熱狂してた頃の文学者と同じだよな」「AbemaTVの現場とかすごい面白かったぞ」って話していました。「青学TV始めてからは、コンテンツを毎日何本も作っている、むちゃくちゃ楽しいぞ」って。

「NHKの連中も毎日一人一本番組作ればいいんだ」とも。

自分のフットワークが悪くて少ししか手伝えなかったこと、別の仕事で忙しくしていたこと、なんだか恥ずかしかったです。青学TVの立ち上げの時「なんだ、山本、暇じゃないのか」って言われたな。

それから、教職は楽しいと言っていました。若い子といると楽しいって。反対に、NHKやテレビの悪口をいつも言っていました。「10年後には滅びてる」って。私はそんな簡単にはいかないんじゃないかなって内心思っていますけど、テレビも映画も言葉も映像も、どうなっていくんでしょうか。現場で生きていて、そういうこと深く話せる相手、先生の他にいなかったです。

 

最後、どうして年賀状の返事くれなかったんだろう、どうして事務的なメールしかくれなかったんだろう、という思いがないわけではないですが、基本、先生と私はお酒を一緒に飲む仲だったからな。って。2人で日本酒、一升飲んだこともありました。

お酒の切れ目が縁の切れ目、じゃないけど、お酒飲めなくなった先生と心から楽しい時間を過ごせることは、ほんとにダメなんですけど、なかった気がします。やっぱり気を遣っちゃいますし。病気と闘ってる先生って、本当に勝手ですけど一緒にいて落ち着かなかった。

仕事だと、先生怖いし。緊張していました。去年も一昨年も先生と仕事しましたが、仕事のメールの事務的加減は凄まじく(余計なことを一切書かない感じがすごく…)。でも今思えばですけど最後の方のメールのやり取りには「すみません」「頑張ります」とか書いてあって変な感じでした。(最後にメールのやりとりしたのは亡くなる20日前でした。)先生が飲めなくなってからは、飲みに誘えないし仕事以外で会うことが減ってしまいました。仕事、疲れちゃうし。体ホントは随分長いことキツかったんじゃないかな。と。体大切にしてくださいねって書いても「ホイ」とかいう返事しかくれませんでした。

 

よく考えると他にわざわざ呼び出して二人で会う人っていなかったです。お互い好きで飲みながら話すだけの人。先生にはたくさんそういう相手がいたかもしれないけど私には他にいませんでした。恋愛ではなくて、大切で大好きな飲み友達。

去年の8月、首藤さんと3人で会った時は私だけ日本酒飲んで、先生は炭酸水でつきあってくれました。その後もメールで仕事のやり取りはしていましたが、あの日が先生と会った最後になってしまいました。先生は、私に子供が生まれてからは、飲んだ後必ず「子供達に」ってスイーツを買って持たせてくれました。

沢山ごちそうしてもらったし、映像の仕事をする入り口を作ってもらったし、沢山の人と出会わせてもらったし、先生に関わる時間は私にとって全部かけがえのないものでした。そんなのいらないよ、って言うかもしれないけど、この先、直接恩返しできないなんて、本当に身を切られる思いで、どうすればいいのかわかりません。

 

山本はコミュ障

山本は強欲

山本は天才だったよなあ(思いきり過去形)

山本はひねくれ過ぎている

いっぱいいろんなことを言われました。

 

私の結婚パーティーの挨拶では

「結婚なんてどうでもいいと思ってるんで。でも『どうでもいいことは常識に従え』という言葉があります」

という名言を頂きました。

先生は出会った頃、先生が45歳くらいだったのかな(いや、36歳だ!先生は若い頃から老けてたんだなあ…)本当によく「どうでもいい」って言ってました。「でっかく書道で『どうでもいい』って書きたいくらい、ほとんど『どうでもいい』」って。そんなほとんどどうでもいいって言っていた先生が、大学2年の時、学校の課題で最初に一人で作った私の映像作品を見て「ここ数年見た学生の作品の中で一番面白かった」って講評してくれたことが嬉しくて今でもその言葉をお守りにしています。私は初めて自分を理解してくれて褒めてくれる他人に出会った気がしました。

仕事をするようになってからは、いつも「山本の好きなように作っていい」って言って楽しい仕事をくれました。ええ!?、そんな発注の仕方ある!?って戸惑いながら、先生に褒められたくて仕事をしていました。先生との最後の仕事、青学の三浦哲哉先生に私を紹介する時「山本は青学のことは全然わかってませんが、腕はピカイチなんで」って言ってくれたこと本当に嬉しかったです。(ホント無茶ブリですけどね…)

 

私は、先生なしでは、映像ディレクター山本遊子になれなかった。

今年の年賀状に「先生、今度インタビューさせてください」って書きました。映像メディアのこれからをどう思っているのか真剣に聞いて先生の言葉を映像で残したいと思っていたんです。

今年でディレクター歴20年です。

川井さんや健介さんと出会った「digital kids play ground 9903@tokyo」っていう番組、私の初めてのディレクターデビューの仕事、ディレクターとして初めて名前が出た仕事、先生と連名でした。あれからちょうど20年です。よく考えるとすごいことしますよね、素人の大学卒業したばかりのなんでもない私をボーンと海に放り込むのですから。でも、先生はいつでも浮き輪みたいに私が溺れないように助けてくれました。

 

あ、先生が言っていた言葉でもう一つ。

「恋は文学、愛は哲学、だよな」って言うのも覚えています。いつだったろう。

なんか、先生はあの頃は若かったんですね。

 

 

先生が死んでしまうなんて思わなかった。

 

でもなんとなく先生が何にも言わずに逝ってしまったことは腑におちるんです。

 

先生は言葉の人じゃなかった。

先生は映像の人だった。

 

映像は光。

 

 

でも泣いちゃう

 

本当に生き返って欲しい

 

嘘でしょ

 

先生、さようなら

先生、大好きでした

 

 

2019年2月26日

山本遊子より

 

 

 

 

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